もりこーの木曽路日記

特別寄稿 巻本さんのアルバムから−7
今回は保存車輌と、公表のタイミングを逃した興味ある車輌や小物類等をあわせてHP用に送ります。木曾森林鉄道の車輌は、廃止後、各地に引き取られていきましたが、その中で、京都から近くに保存(放置?)された車輌を紹介します。その日は早朝から近鉄内部線を撮りに行った帰りでした。まだ陽がある内に国道1号を走っていると、目がいきなり覚めるような1群が視界に飛び込んできました。土山の食堂の看板?としてDL+B型客車+運材台車1組+ワークカーが置いてあったのです。その後暫くは残っていましたが、ここ15年程はそこを通ることもない内に、いつのまにか消えてしまいました。一部の車輌は野辺山SLランドで復活しましたが、ワークカーのその後はどうなったのでしょうか。

@酒井DL No.118+B型客車+運材台車1組+ワークカーNo.14が一直線上に並ぶ。これらは光陽食堂の「看板」でしょうか。この木曾酒井DLのエアークリーナーは排気管の反対側にあり、手すりはエアークリーナーカバーの逃げがない直線のタイプです。B型客車は、腰板が横羽目板張りの助六型客車なのですが、羽目板に白線が引かれています。この写真は国道1号の走行車線から撮っていますので、撮影にかなりの勇気が要りました。1980-10-5


A@の編成を後方から見たもの。酒井ワークカーNo.14とは、結局木曾では会うことがなかったので、ここで見られたのはラッキーでした。ワークカーNo.14の運転台と荷台間の仕切窓は、高さがワークカーNo.18の半分くらいしかなく、また鉄格子が横に入っているのが判ります。その窓の上にはバックライトが付いていました。DLの前の道路は国道1号です。1980-10-5


BワークカーNo.14の真横写真。前軸から延びたチェーンは、後軸を通り越して連結器あたりまで延びて折り返しているのが判ります。塗り分けは、現役時には荷台の高さで、キャブまでツートンに塗られていましたが、1980年にはキャブはブルーの一色塗りとなっていました。1980-10-5


C1980年の時には運材台車が邪魔をして前面写真がうまく撮れなかったのですが、1983年に再訪したときには、運材台車の片側がなくなっていたので、形式写真が撮れました。しかし、1983年には全体がブルーの一色塗りに変化していました。この写真のように前面窓は前方に開けることが可能です。1983-1-5


D後方から見た図ですが、荷台がだんだん物置と化していくようです。1983-1-5


Eこれが有名な上松駅南方の三線区間です。国鉄上松駅に隣接した東貯木場から、前方右の西貯木場へは、国鉄との三線区間を通って運材台車等が行き来をしていました。国鉄の線路は一番左から2本が上下線で、森林鉄道との三線区間は引き込み線と共用になっていました。この写真を撮影した時点では、中央西線の電化にはまだ1年半以上ありましたが、既に電化用のポールが立ち始めていました。1972-1-4


F三線区間は引き込み線と共用なのですが、万が一、木材を落として、それが隣接した本線を塞ぐと大事故につながるので、共用区間の使用方法や時間が制限されていました。1972-1-4


G三線区間から国鉄上松駅と東貯木場側を見たものです。三線区間に入る手前に脱線ポイントがあります。 1972-1-4


HGからさらに東貯木場側に寄りました。脱線ポイントの手前には、さらに車止めがもうけられています。貯木場構内には、伐採された木材が所狭しとうずだかく積まれていることが判ります。見ている方向は逆方向なのですが、「私のアルバムから-2」のGと比較するとその差に驚かれると思います。初期の協三工業製鋼製運材台車やブレーキポストに白帯が塗られた初期の富士重工業製鋼製運材台車が見えています。1972-1-4


I上松駅の駅名標です。停車場延長は 1423 m 30 cmとなっていますが、ここまでの有効数字は必要なのでしょうか。掲示板の方の日付は1961-1-1となっているので、京都のN電の廃止よりも前ですね。長い間風雪に耐えていたようです。1974-11-14


J上松駅の森林鉄道乗客への注意板です。1974-11-14


K木曾森林鉄道の列車ダイヤ(田島−本谷間と大鹿−助六間)です。実線は自担当のもので、他の部所が担当する列車は点線になっていて、横に所属が書かれています。右上には、運材台車の配車予定が左に、運材を積んだ引き出し予定のものが右に書かれていて、このようにして運材台車の管理がなされていました。これを見れば白川、蜂淵、土浦、本谷、濁沢、助六の各事業所の活動状況が一目で判ります。列車ダイヤは、撮影者にとっても種別や編成長、時間等が判り、その日の行動を決定する重要な資料でもありました。1974-11-15大鹿


L後ろ妻板が木製3枚戸の酒井5t DL No.92は、他の酒井5t DLとは塗り分けがわずかに異なっていて、サイドの台枠からフロントへ行く段差の所が三角形に塗られていないことと、帯がラジエターグリルの下を通って左右がつながっていることです。他の特徴は排気管側にエアークリーナーカバーがあり、左ボンネット上の手すりがないことです。同系列の No.91は帯がつながり、三角形塗り、排気管側にカバー、手すりがなしです。No.93は逆に排気管とは反対側にエアークリーナーカバーがあり、手すりはエアークリーナーカバーの逃げがない直線のタイプです。No.95は帯がつながらず、三角形塗り、排気管側にカバー、手すりがなしです。また古い写真から推測すると、帯は1973年から1974年にかけて塗られたものが多いようです。塗装や装備の経時変化については、個人の方の資料提供によって、今後一覧表の作成が必要だと思います。1974-11-15大鹿


M元理髪車だったC型客車No.5です。片側にしかデッキはありません。左側に客車「No.1」が見えていますが、貫通ドア側に小さなデッキと手すりがあるのが判ります。1974-11-15大鹿合同事務所前


Nタブレット受けとタブレット。後ろに見える客車「No.1」の貫通ドア側にある小さなデッキは、連結器の長さから推測すると、後年に作られたようですね。大鹿ー滝越の通標はマル、大鹿−田島はサンカクでした。1974-11-15大鹿合同事務所前


O氷ヶ瀬−下黒沢の日向淵を行くモーターカー No.74。前面にひげが生えたようになっていますが、塗装が剥げて以前の塗装が見えています。以前は塗り分けが異なっていたようで、V字型の前は、三角形がヘッドライトの所で重なったX型の塗り分けだったようです。1974-11-16


P小型タンク車のアップですが、ブレーキは「コ」型の梁が反対側までつながっているのが判ります。1974-11-16大鹿


Q小型タンク車の逆サイドです。ブレーキポストからブレーキシューまでの伝達方法がよく分かります。タンク車の胴体の下には水抜き用の栓があります。1974-11-16大鹿


R制動車No.7です。制動車は車体中心とホイルベースの中心とが一致したタイプと、オフセットしたものがありましたが、制動車No.7は手すりを含めてシメトリーな美しい車輌でした。なお、以前から気になっていた、台風時の制動車の取り扱いを、この時に大鹿事務所で聞いたところ、「台風が来る前に車庫にしまう」という、当たり前の回答をいただきました。1974-11-16大鹿


S小型貨車を利用した非常用車はブレーキ用のデッキがありました。1976-8-25大鹿